しくじり先生 新庄剛志 その2/3 (メジャーに挑戦)

2017年2月20日(月)の「しくじり先生」に新庄剛志さんが登場。
現在はバリ島で暮らしている新庄さん。しくじり先生が好きで、今回は自分から出演を希望したそうです。これまで公表していなかった金銭トラブルを発表して、俺みたいになるな!ということを訴えかけました。視聴して面白かったので記録しておくことにしました。日本ハムファイターズファンにとって、特別な存在である新庄剛志さんの裏話など、興味深かったです。長くなったので3つに分けています。その2は、メジャーでの3年間を中心とした話です。

プロ10年後、新庄剛志の選んだ道は?

FA宣言をしたところ、阪神から総額12億円の提示を受けた新庄さん。東京でプレーすることも考えましたが、それもなんだか今一つ。そんな時に思い浮かんだのが、大リーグへ行くこと。

新庄 「これアメリカに行った方が早いんじゃないかなと。アメリケン行った方が手っ取り早いじゃないですか。日本でスターになるのは。」
お金よりスターになることが大事なんだそうです。

新庄 「すると奇跡が起きました。ニューヨークメッツから、オファーがあったんです。」

ニューヨークメッツからオファー

ただメジャーに行けばよかったというわけではありません。
新庄 「ニューヨークじゃないといけなかったんです。僕は。」

その時日米野球があって、新庄さんは5番センターでスタメン起用されました。その時、打ちまくりました。4割くらい打ちました。本人曰く「お祭りしか打てない。」

新庄さんの頭の中には、ニューヨークメッツ、ニューヨークヤンキース。ニューヨークの球団しか頭になかったそうです。
日米野球の試合を終えて部屋に帰って、「はぁ活躍できた。あとはオファー待ちだ。」と思っていたら電話。

相手はニューヨークメッツの〇〇。「今からすぐ六本木の××に来てくれ。」とのこと。英語がよくわからないので、英語をしゃべれる友達を探して一緒に行くことにしました。
深夜2時頃の話です。着いたら、分厚い資料がテーブルに乗っていて、即お金の話。年俸を見たら、2億2000万円。すぐに契約しようと思った新庄さんは、一緒に来てる友達から、「2200万円だけど大丈夫?」と言われました。0を1個見落としていたんですね。

それまで、野茂投手、佐々木投手などの日本人投手は活躍していたけど、野手では初めて。未知数です。そのため、金額はそれほど高くはできないということだったそうです。

新庄さんは「ちょっと考えさせてくれ」と言いました。先方はあと22時間しか待てない、と言ったそうです。ここでも22の数字が登場しました。

新庄 「誰に相談しても反対されるに決まっていたので、相談しませんでした。」
当時のマスコミは、阪神・横浜・ヤクルトどれかにすると予測していました。

日本中が注目した。記者会見。2000年12月11日

新庄 「いろいろ考えたんですけど、自分に合った焼きのできる環境が見つかりました。その球団はニューヨークメッツです。メジャーというレベルの高いところでやりたい。」
メジャーへの移籍交渉が進んでることに気づかす、マスコミもファンも皆度肝を抜かれました。

22時間目に答えを出したそうです。
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マスコミより驚いた人たちがいました。それは家族です。お父さんに電話した時に「勝手にしろ!」と怒鳴られました。
「メジャーに行っても通用しない」と親にですら言われました。

アメリカに行くことになってから、次の日から「お前は日本の恥だ。お前みたいなのが行くな。絶対に通用しないから。」と言われるようになりました。
落ち込むのかなと思ったら、さすが新庄さん、「それがものすごくうれしくて。それだけ言われて活躍した時は、、、、もっともっと言ってという感じだった。」とのこと。

奥さんにも話していませんでした。
ただ1人「行った方が良い」と言ってくれた人がいます。それは A さんです。

奥さんははアメリカに連れて行っていません。「誰にも頼りたくなかったので。野球に集中したかったんで。」という理由です。アメリカでは、メジャーかもしれないしマイナーかもしれないし。

そのあと、またまた、新庄さんらしいエピソード。
メッツと本契約をする時に英語のできるしゃべれる人連れて行ったんですが結果的にその人は何もわかっていなかったのでした。そのまま、何もわからずサインだけは80枚くらいしました。

そして、ここで重大なしくじりに気づきます。
来年の税金が払えない!

2000年の年俸は8000万円。すると2001年は、4000万の税金を払わなければなりません。
それなのに、2001年の年俸は2200万円。飲まず食わずでいたとしても払えない。

お金がなくて持ってたフェラーリを売ることにしました。そこでオークションにかけることに。ただ、とんでもない金額で買うという人が現れて、、、、結局新庄さんは、取り下げてしまいました。提示は3億円でした。もともとの値段は2200万円。「悪いなって気がして、高すぎて。」オークションを断念しました。新庄さんの人柄が出ていますね。

そのタイミングで、コマーシャルの仕事が来たというから、運が強いですね。コマーシャルの金が8000万円。

その時のメッツの監督がボビーバレンタイン。(のちにロッテの監督になります。)
新庄さんが渡米してすぐにオープン戦でした。そこで結果を出さないとマイナーリーグ。オープン戦の結果、30球団の中で4位か5位の好成績を残しました。
しかし、この年に、ドラフト1位ですごい選手が入ってきました。その選手は必ずメジャーに入ります。新庄さんはメジャーに残れるかどうかぎりぎりのところ。

その時、そのドラフト1位選手が交通事故で亡くなってしまったそうです。ものすごく仲良かったそうです。ショックを受けた新庄さん。しかし、複雑な気持ちなってしまったそうです。彼がいたら、メジャーに入れなかった可能性が高い。

新庄 「監督のボビーが僕のところに来て、『辛いことがあった。でも、お前の人生にとってはラッキーと思え。切り替えろ。』と言いました。絶対に活躍するからと決意しました。それでメジャーに入れたんです。」
気持ちを切り替えて。彼の分まで頑張ろうと、心を強く持ったそうです。

メジャー1年目の8月にこんな偉業を達成しました。
「日本人初の4番バッター」

新庄さんは、いつもメンバー表を見るときに4番から下を見ていました。だいたい7番~8番だから。それで、4番にすわったあの日も、さーっと見て自分の名前がないなと思ってクラブハウスでトイレしていました。そしたら通訳が来て「なんでグランドでフォーミングアップしてないんですか?」と尋ねるので、「今日試合出ない、出ない。」と答えたそうです。

「4番ですよ。」という言葉に、びっくりして、おしっこも止まってしまったそうです。
「誰?ピッチャー。」
「ランディージョンソン!」

その映像が紹介されました。
試合前のインタビューでは、「チャンスで回ってきていいところで打てれば野球やめてもいいかな。」と話していましたが、その日はいいところなしでした。

初打席は、鋭い変化球について行けず三振。キャッチャーのパスボールで振り逃げ。出塁はできました。その次の打席は、豪速球にあえなく三振。結果的に4打席ノーヒット、3三振。
ランディジョンソンのすごさを実感したそうです。初めて「これは打てない」と思ったそうです。

前の日はスタメン落ち。その次の日もうスタメンはないのかなと思っていたら、また4番。
「ピッチャー誰?」
「カートシリング。」(右投げの大投手)
「これで打ったら俺のもんだ。」と思ったそうです。そしてその試合、打つわ打つわの大活躍。そこからずっと4番バッターを務めることになります。

ニューヨークで4番を打ち始めてからのエピソード


ドルチェ&ガッパーナというお店に入った瞬間に、店員が扉を閉めてしまいました。そして言うことには「ここにあるものすべてあなたにプレゼントします。」
新庄さんは、「俺はお金を持っているから払うよ。」と言って支払いをしたそうです。その後店を出たら、警官が寄ってきて、「家までをお送りします。」と言ってくれたそうです。スーパースターの扱いになっていたんですね。

ニューヨークタイムスでは「ニューヨークは新庄の街だ」と書いてくれたそうです。
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遊びにも行ったそうですが、英語がわからないので、「英語を覚えるよりは日本語を覚えさせよう」としたそうです。さすがですね。
監督も一生懸命日本語を覚えてくれたとのこと。「新庄には、英語は無理だ」と思ったのかも、ということです。
(もしかしたら、ボビーにとってもその時の日本語が、ロッテに来た時に役に立ったのかもしれません。)

2001年シーズンを終えて

シーズンが終わってみると、打率2割6分8厘、ホームラン10本、出場試合123。

オフに日本に帰ってきたら、スーパースター扱いになっていました。これぞ待ち望んでいたことだったのです。目論見通りになりました。

日本に帰ってくるとコマーシャルな話が沢山ありました。
ローソン、サントリーメディアホールディングス、東洋水産、日本コカ・コーラ。
そのほか、テレビ出演も。

缶を持つボーズをするだけで、数千万円。(あとは合成技術でいろいろとできるそうです。)
1年で7、8億円になったそうです。

この CM のお金も全部Aさんに預けていました。

途中で通帳は一切見なかったそうです。このくらいだろうなぁというぼんやりとした感覚はあったようです。

そして感覚は、「野球なんてバイト」

大リーグ時代のスポンサー契約のエピソード

リストバンドをつけてください、ということで送られてきます。それをつけて試合に出るだけで4000万円。
アンダーシャツ2000万円、スパイク何千万円。

他の選手に聞いたら全部含めて300万円っていうから「これはあんまり言っちゃいけないな。」と思ったそうです。

だから、「野球なんかはマジ、バイト」

ニューヨークで免許を取った話

「クラブハウスで免許が欲しい」と言ったら、球場に警官がやってきて、「ちょっと運転してみて」ということになり、少し走った後、「はい OK」ということで免許がもらえたそうです。

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1年目のオフにはトレードで、サンフランシスコジャイアンツに移籍。本心はニューヨークにいたかったそうです。でも仕方がない。

サンフランシスコに着いたら、監督やバリーボンズなどレギラークラスがお出迎えをしてくれたそうです。
「わいたこら」と九州弁がでてしまったそうです。「すごい。なんだこれは。」という意味だそうです。

乗っていたファーストクラスには新庄さん以外お客さんを入れていなかったそうです。球場に行ったら800人くらいの人がいる。その場で新庄さんは
「俺がここに来たからには、ワールドシリーズに行かせる。」と言ってしまいました。

ところがシーズンが始まったら絶不調。最悪の「わいたこら」でした。
絶不調の原因は期待されすぎたことだと、自己分析していました。

2002年のシーズンオフにクビになります。期待されすぎたことで負けず魂に火がつかず野球人生初の戦力外通告。

2003年再びニューヨークメッツとの契約しますが、マイナー暮らしが続き、アメリカを去ることになります。

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メジャーでも、短いながら強烈な印象を残した新庄剛志。日本に戻ってまた目立ちたいと考えたようです。その3に続きます。
しくじり先生、新庄剛志 その3/3 (いよいよ北海道へそして引退)

前の記事はこちら。
しくじり先生に新庄剛志氏登場!その1/3 面白かった。