大学の合格発表が始まり公立高校の入試も終わって、いよいよ”別れと旅立ちの時期”になりました。函館地方はこのあいだから、すでに乾燥路面になっていたのですが、ここ数日まとまった雪が降っています。「落ちてはとける」ような雪ではありません。どんどん、どんどん積もっていきます。「今更、なんだよ、、、」という感じです。気分的には北海道版「なごり雪」です。少し湿った雪が結構たっぷりと降る! 久しぶりに「なごり雪」を聞きたくなりました。

ところで、「なごり雪」の「なごり」って、もともとどんな意味だっけ?と気になったので、調べてみました。その上で「なごり雪」の歌の意味もkojiなりに整理してみようと思います。

「なごり」の辞書での意味

「日本国語大辞典」の記述を中心に、kojiなりに整理してみました。

語源に関係する意味

なごりは漢字で書くと、「名残」・「余波」。「波残(なみのこり)」の変化したものといわれます。
1)浜、磯などに打ち寄せた波が引いたあと、まだ、あちこちに残っている海水。また。あとに残された小魚や海藻類もいう。
2)風が吹き海が荒れたあと、風がおさまっても、その後しばらく波が立っていること。またその波。なごりなみ・なごろ。
ポイントは、海の「波」でした。「名前」は無関係。後で漢字が使われたようです。

一般的な「なごり」の意味

「波残り」の事から発展して、別れに関してよく使われる「なごり」の意味が生まれました。
1)ある事柄が起こり.その事がすでに過ぎ去ってしまったあと、なおその気配・影響が残っていること。
2)特に、病気・出産などのあと、身体に残る影響。
3)物事の残り。もれ残ること。もれ。残余。
4)死んだ人の代わりとして、後に残るもの。子孫、末裔、形見、財産。
5)人と別れたあと、心に、そのおもかげなどが残って、忘れられないこと。また、その気持ち。
6)人と別れるのを惜しむこと。また、その気持ち。惜別の情。またその気持ちを表すためにするさまざまなこと。送別の宴、別れの挨拶など。
7)これで最後だという別れの時。最後。最終。
いろいろとあります。5)と6)は似ていますが、5)は別れてしまった後の気持ち。6)は別れの前や別れ際の切ない気持ちをさすということですね。喧嘩別れでない限り、別れに「なごり」はつきもののようです。「なごり雪」の「なごり」には6)の意味もあります。

「なごり」の慣用句

「なごり」が使われることばもたくさんありますが、いくつかピックアップしておきます。

なごりの杯=別れを惜しみながらくみかわす杯。別離の杯。

なごりの月=夜明けの空に残っている月。有明の月(百人一首にも出てきます。)
十五夜の次の十三夜を言うこともあるそうです。その年のお月見の最後とするところからそういわれるそうです。

なごりの涙=名残を惜しんで流す涙。別離を惜しんで流す涙。別れの涙。

なごりの花=散り残っている花。花盛りをしのばせる花。

なごりの雪=1)春先まで消え残っている雪。 2)春になってから降る雪。

なごりの夕立=その夏の最後の夕立。(夕立は夏の風物詩)

なごり惜しい=過ぎ去るものごとに心惹かれ、長く止めたい。また、別離が辛く心残りである。

「なごり雪」の歌の意味

慣用句では「なごりの雪」が一般的です。もしかしたら、「なごり雪」といういい方は伊勢正三のオリジナルなのかもしれません。
久しぶりに聞いた「なごり雪」。自分なりにぼんやりとしたイメージはあったのですが、改めて歌詞を眺めて歌の意味を考えてみます。

「汽車」=最近の人は汽車とは言いませんね。kojiの周りでは「汽車」が普通、「電車」という人は少ないですが。

「時計を気にしてる」=「僕」が時計を気にするのは、なぜか? 仕事や他の用事のせいではないでしょう。別れの時間がだんだん迫ってきてしまうことを確認せざるをえないということだと思います。

汽車が来るまでに何か言おうとしてる、という可能性もあります。だから、汽車の時間が気になる。内容は「やっぱり行かないでほしい」とか「きれいになったね」とか。でも、「僕」の葛藤はほかのところからは読み取れません。「君」の別れの言葉を確認したくないから、下を向く僕。”軽い悔い”と”あきらめ”を感じます。

一方で、ただ手持無沙汰で時計を見ているだけという考えもあります。いまどきなら、スマホを見るという感じかも。しかし、それだと、軽すぎますね。3行目が「季節はずれの雪が降ってる」となっているので、やはり時計を気にしているのは、あまり深い意味がないと思われます。

「東京で見る雪はこれで最後ね」=もう東京には戻ってこない。「君」はある期間、「僕」とともに東京にいたということ。その言い方は、「さみしそう」だったのです。いくつも疑問が出てきますね。
Q.「僕」と「君」はどんな関係だったのでしょう。・・・恋人だと思います。
Q.「君」どうして東京を去っていくのでしょう。・・・結婚する。(「22才の別れ」の「私」は嫁いでいきます。この「私」となごり雪の「君」は重なりますね。この二つの曲は、反対側視点の一組のものと考えられるような気がします。)
Q.この二人の仲に未来が感じられないのはなぜ?・・・「僕」が行動せずただ立っているから。

「なごり雪も降る時を知り」=「なごりの雪」は辞書的には、春になってから降る雪でした。ただ、雪は「自分はなごりの雪になろう」と降るわけではなく、結果的に「この時期に降ってきたお前はなごりの雪とよばれるんだ」となるはず。しかし、この歌の中では、なごり雪がタイミングを知っていたという言い方になっています。

そこで考えるに、この場合の「なごり」は、上に書いた7)の意味、「これで最後だという別れの時。最後。最終。」という意味ではないか。一般的な「なごりの雪」ではなく、「もうこれっきりの雪」ということ。こう考えると、「君」の「東京で見る雪はもう最後ね」と響きあいます。「なごりの夕立」と同じ使い方ですね。

ここまで書いてきて、改めて「なごり雪」というのは、伊勢正三がそれまでの「季節はずれの雪」だけではなくて、二人にとっての最後の雪、名残を惜しむ雪、といういくつもの意味を重ね合わせた言葉なんだろうなと思い当たりました。かなり詩人だなと思います。なごり雪は、これっきりの雪。きちんとお別れのタイミングに合わせて降ってきた、という「僕」のとらえだと思います。

「ふざけすぎた季節」=「僕」の”照れ”や、”逃げ”がそうしたのかもしれませんが、将来のことなどは真剣に話し合わなかったのでしょう。

「去年よりずっときれいになった」=「僕」がそう感じています。自分の元から離れていくということが決定的になり、客観的に「君」を見ることができるようになったから、という理由もあると思います。こんな「きれい」な「君」をしっかりとつなぎとめておけなかった”悔い”が最後のリフレインに込められていると思います。

「22才の別れ」だけでなく、「雨の物語」「海岸通」「あの唄はもう唄わないのですか」など、この時期の伊勢正三の詩には恋人たちの別れが共通して描かれていますね。それぞれの歌の意味を考えるときに、参考になると思いました。

「ささやかなこの人生」はそんな、ほろ苦い別れを経験した恋人たちへのエールの歌のように思えます。
「やさしかった恋人達よ/ふり返るのはやめよう/時の流れを背中で感じて/夕焼けに涙すればいい」

「フォーク」と「ニューミュージック」、「フォークギター」と「アコースティックギター」

kojiが中学生でギターを持つようになったころには、かぐや姫はすでに解散していましたが、よく聞いて歌っていました。泉谷しげるは「春夏秋冬」というアルバムを出していて、面白いやつだなと思いました。吉田拓郎や井上陽水が元気でした。そのころ、確かに「フォークソング」と呼ばれていたはずなのに、、、。
ギターを弾かなくなって、社会人になって、気づいたらみんな「ニューミュージック」になっていました。このことについても、気になるところですが、諸説あってはっきりしたことは言えないらしい。wikipediaによると、広辞苑に「ニューミュージック」という言葉が載り始めたのは、1991年の第四版からだそうです。このwikipedkiaの「ニューミュージック」のページは面白かったです。けっこう長いですが、興味がある方は読んでみてください。

kojiなりにざっくりというと、フォークソングは、「プロテストソング」や「四畳半フォーク」の要素を持つもの。ニューミュージックは洋楽の影響が感じられたり、音楽性を重視した、歌謡曲ではない音楽。

実は、「なごり雪」の作詞作曲をした伊勢正三が作った「風」というグループがポイントになるという説もあります。また、荒井由実(松任谷由実)は非フォークをかなり意識していたらしい。kojiとしてはフォークの代表と思っていた吉田拓郎こそが、ニューミュージックのスタート地点かもしれないなという気がしてきました。

フォークギターとアコースティックの違いが気になったこともありますが、結局は全く同じということでいいですね? フォークという言葉が使われなくなったので、エレキに対するアコースティック(電気的に増幅してない)という呼び方が主になったと理解しています。「アコギ」という言葉が、最初はわからなかったkojiでした。