日本ハムファイターズが北海道移転したのをきっかけに、日本ハムを応援するようになりました。その時の目玉は新庄選手でした。とにかく、華のある選手。在籍はたった3年ですが、私の日本ハム関連の記憶の中で”新庄剛志”は、燦然と輝いています。

引き際も見事でした。その後、どうしているのか気になっていましたが、情報はありませんでした。それも、新庄さんらしいと思っていました。
それが、なんと「しくじり先生 俺みたいになるな!!」に登場したではありませんか。(録画ではありますが)見たら面白かった。波乱万丈ですね。その内容を書き留めておくことにします。

放送:2017年2月20日(月)午後7時からの3時間番組。その2番手として登場しました。
現在住んでいるバリ島の様子が紹介されるVTRのあと、いよいよ授業スタート。教壇の裏が電飾のたくさんついたミニステージになっていて、回転しながら登場です。

授業開始!!
新庄 「(自分の話は)むちゃくちゃ面白いから!」

新庄さんは、”しくじりを告白しそれを教訓とするように投げかける”この番組が好きで、今回の出演も自分からオファーしたそうです。
実は新庄さん、すごい金額をしくじっていたそうです。「テレビ初告白」です。

〇授業のポイント・・・・ある人物Aに裏切られる

これまで明かすことのなかったあるしくじりを今夜初告白、番組史上最高額の金銭トラブルとのことでした。このトラブルで新庄さんが失った額はかなりの金額。
規格外の生き方をしてきた。規格外の男の規格外のしくじり!
その原因となったAさんは一般の人々に知られた人ではないそうです。

〇授業のタイトル・・・【新庄剛志のしくじりTSU-2(ツーツー)ライフ】

新庄 「いろんなことが22に関係するんです。」
TSUはつよしの”つ”。

まずは自己紹介。
新庄 「福岡県生まれ、1972年生まれ、メジャーでも活躍した元プロ野球選手、、、」

どれだけ活躍したかを紹介

・1989年阪神タイガースにドラフト5位で入団。それから10年間。タイガースのスター選手として大活躍。背番号は5

・2001年にはメジャーのニューヨークメッツに移籍し、日本人としては初のワールドシリーズに出場。歴史に名を残しました。シーズンオフにはベストドレッサー賞を受賞。さらに商品のプロデュースを手がけ、注目を浴びました。下着や香水です。

・2004年には日本球界復帰。北海道日本ハムファイターズに入団。新庄劇場と呼ばれた球場パフォーマスで多くのファンをわかせ、2006年には球団として44年ぶりの日本一にも貢献。その年惜しまれつつも引退。記憶にも記録にも残る選手として野球人生の幕を閉じました。
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新庄剛志の野球人生
野球を始めたきっかけの話~高校時代

・とてつもない身体能力を持っていた。
新庄 「サッカーを始めると2日で1番。体育の先生がバク宙を見せてくれると、見ただけですぐできました。」

ある時、お父さんと一緒に河原にいたときお父さんが石を投げてみろと言うので、投げてみると、80メートルぐらい投げたらしい。小学校二年生頃の話。お父さんはそれを見て、「こいつはプロ野球選手だ」と心に決めたようです。

高校時代、自分のチームメイトを見るために沢山のスカウトが来たことがあったそうです。スカウトが帰ろうとしたとき新庄さんは外野から思い切って投げてバックネットに直撃させました。それを見たスカウトが、「なんだこの肩は!」と注目してくれ、それからスカウトが見に来るようになったそうです。

甲子園には行っていなくて、その時のバックネット直撃のスローイングがプロ入りの大きなきっかけだったろうとのこと。

ドラフト5位でした。
新庄 「とても悔しくて、プロに入ったら見返してやろうと思ってました。」

阪神時代

新庄 「3年目に活躍しだして、明日スタメンで行くぞって言われて、それが仙台。仙台じゃ活躍したくない。雨降れ。中止になってくれと思ったんです。そしたら雨で中止になりました。」
「そのあと富山だったと思うけど。とにかく地方の球場で。そこでも中止になれ、と思っていたら、雨で中止になりました。」
「次は甲子園。これだ!と思ったね。 7番サードでスタメン。横浜の有働投手。もちろんイメージは速いストレート。待って、待って来たのがスローカーブだったんです。タイミングがずれながらもホームランになりました。
こんな感じで3年目に活躍して、4年目の年俸は2200万になりました。」

この時、22歳

母親が、お金を沢山もらうと管理しなくちゃいけないから、この人に頼みなさいと知人のAさんを紹介しました。40代後半の男性です。
A さんの家は、すごくでかいお家。中にはサウナがあるは、居間には賞状が壁いっぱいに飾られていました。A さんは沢山会社を経営していました。街を歩いたら、警察官がその人に敬礼するような人。

>新庄 「この人ならお金を預けて大丈夫と思いました。そしてお金の管理を任せました。」

肩書きや振る舞いを見て信頼し、お金をすべて A さんに預けました。必要な時に必要な額をもらうことにした新庄さん。この頃の A さんは新庄さんにとって生活面もサポートしてくれる良き相談相手でした。

新庄 「自分がスター選手になったのは、ほぼこのAさんのおかげ。」

阪神時代の活躍のまとめ

プロ入り2年目で一軍昇格。主力選手として活躍。特に守備では持ち前の強肩を生かした矢のような送球でピンチをすくい、時には華麗なダイビングキャッチでファンを沸かせました。
一方、攻撃ではチャンスに強いバッティングでチームの勝利に貢献。特に印象的だったのは、だったのは敬遠球を強引にうち、サヨナラ勝ちに導いた一打。名場面として語り継がれることになりました。

まさに攻守にわたってチームを引っ張る存在でした。

敬遠球を打った時のエピソード

新庄 「この敬遠を打つ前、2日前広島で同じケースがあったんです。その敬遠のボールを見てたら、これ打てるんじゃないかな、と思いました。練習の時に、バッティングピッチャー・キャッチャーにお願いして敬遠のボールを打つ練習をしました。当時の野村監督はあいつは何をしとるんじゃと言ったそうですが、その時のバッティングコーチは柏原さん。」

柏原コーチは、現役時代、1981年日本ハムの四番で西武戦に出場し、敬遠球を打ってホームランにした実績があります。

新庄 「そこで、柏原コーチに話をして、これからこういう場面があるだろうから、柏原さんのこと見ますから、打ってよかったら帽子取ってもらえますか?と言いました。」

さて、問題の巨人戦。
新庄 「槇原さんの顔を見たら、何で新庄を敬遠しなきゃいけないんだ。抑えられるのに、という顔をしていました。」
「柏原さんは一球目は、一番遠くに立てと言いました。そのあと、少しずつ前に出て行って2球目。ベースを踏んでもいいからとにかく前に踏み込めと。」

それで、打てました。

サヨナラ勝ちなった後、長嶋さんが出てきて「ベース踏んでただろ」と抗議したようですが、そのままになったそうです。

新庄 「後から巨人の選手に聞いたら、『次に新庄にこういう場面になったら、背中の方に投げさせろ。』といってたらしい。」
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プロ10年目で年俸が8000万円に。ただその時の貯金残高は、0円。新庄さん自身が、自分で使って0円だったそうです。

新庄 「小さい頃にプロ野球選手がいい車に乗って契約更改に臨んでいるところを見て、自分も毎年いい車に乗って夢を与えたいと思うようになりました。」
「お金が入ったら車。お金が入ったら車。」
「毎年契約の時には違う車に乗っていました。車18台くらい。だから貯金0円だったんです。ほぼ車です。欲しいと思ったら買ってました。」

10年がたち、実績あったのでFA 宣言することに。
そしたらタイガースが出してくれるって言った金額が12億円でした。
その理由は、新庄さんが出場した試合と、出場しなかったときの売り上げの差。

新庄さんが試合に出たら、1日の売上が2億2000万円。出てなかったら売上は1億ない、という状態だったらしい。

新庄 「打てなくても守ってたらいいんです。」

契約金は2億円。あと10億を4年で割る。

新庄 「でも僕なんか違ったんですよね。関西で有名になっても何か違うな。関西より関東の方がいいかなと思って。東京だったら一躍スターになれるかなと思って。そしたら横浜さん、ヤクルトさんが同じ数字で来てくれました。」

悩んだ末、、、

新庄 「これ、アメリカに行った方が早いんじゃないかなと。アメリカへ行った方が手っ取り早いじゃないですか。日本でスターになるのは。」
「お金より”スター”なんです。」

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阪神で10年間活躍した後、新庄剛志が歩き出した道とは?
気になりますね。

新庄先生、結構お話が上手で、引き込まれていきました。この記事も長くなったので、続きは別記事にします。
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